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zoom RSS 「震災報道」を振り返る(日本記者クラブ賞)

<<   作成日時 : 2012/06/17 00:32   >>

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 週末に日本記者クラブ賞の受賞記念講演会を聞きにいってきた。会場は、日比谷公園前の日本プレスセンタービル。今回のテーマは「3.11大震災 あのとき、そして今」。タイトルの通り、今回の受賞者はみな、震災がらみの取材活動で受賞した。大賞にあたる日本記者クラブ賞を受賞した毎日新聞の萩尾信也記者の講演をはじめ、中身の濃い2時間だった。
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 大賞の萩尾記者は、故郷の釜石市に住み込み、震災から1年間にわたり、毎日新聞紙上に現地ルポを掲載しつづけた。計201回に及んだという。連載の内容は「三陸物語」(写真)として出版され、第二巻にあたる「生と死の記録」もまもなく刊行されるという。筆者は、毎日新聞の取材を全く見聞きしていなかったので、生の連載は全く読んだことがなかったが、今回の講演にあわせて「三陸物語」を図書館で借りて、読んだばかりだった。ベテラン記者(54歳)らしく、丁寧な仕事で、地元の人たちの声を丹念に集めていて、とても印象深い震災の記録だった。また少年期を釜石で過ごした記者だからこそ、かける部分もあるように感じた。震災直後から「現地に行かせてください」と直訴したというから、それだけ思いいれもあったのだろう。登場する人たちの過酷な体験を、活字で生々しく再現していて、一読の価値がある。大賞に見合ったルポだと思う。
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 ちなみに、自分が萩尾記者を知ったのは、今回が初めてではなく、かつての毎日新聞に連載された伝説の企画「生きる者の記録」を読んだときだった。
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それは末期がん患者であった毎日新聞記者、佐藤健氏による死へのカウントダウンを自ら綴った壮絶な手記であったが、末期、佐藤記者が動けなくなったときに、代筆によって連載を締めたのが萩尾記者だった。あまりに強烈な印象を残した連載だったので、萩尾記者の名前もそのとき、脳裏に刻まれた。その萩尾記者が、今回の震災でどんな取材をして、何を思って記事を書いたのか?興味があったので、今回の講演へ参加したわけだ。

 講演で、萩尾記者は「一年間、(三陸で)ずっと海を見ていた。その中で生老病死を感じた」という。被災者から「時が解決してくれるなんて嘘だ」「みんながんばれというけれど、私はこれ以上がんばれない」といった声を聞いたという。また一方で、津波で亡くなった母が最後に叫んだ「行け、生きろ」という言葉を胸に、自問しながら日々を生きる女性の話なども。取材で知り合った妻子3人を失った郵便局員の男性は、今も「生きる意味が分からない」と絶望から立ち直れないでいるという。

 萩尾記者は被災地での仕事について「取材が相手のここの中に手を突っ込むような仕事であることは自覚している。彼らの体験について、薄皮をはぐように、”どんな音がした””何が見えた””どんな匂いがした”と本当にしつこく問いかけた」と自戒を込めつつ、省みた上で、「記者の仕事は人の心の営みを記すものだと思う。震災が突きつけたものを風化させないで行くことが記者としての務めだと思う。これからも被災地に通い続けたい」と語った。印象深かったのは、一年過ごした釜石から東京に戻ったときに「都会の街角がまるで異空間に見えた。東京と被災地の乖離にショックを受けた」と話していたことだった。

 2番目に登壇したのが、福島第一原発の水素爆発の様子を唯一撮影、放送して特別賞を受賞した福島中央テレビの佐藤崇放送制作局長。15分にまとめたショートビデオで「私たちはどう震災を伝えたのか?」を振り返り、続いて福島の現状について報告した。
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佐藤さんが強調していたのが「福島に残っている人と避難した人の間で”早く逃げたほうがいい。どうして逃げないのか?””なんで逃げるの。故郷を棄てた裏切り者!”といった対立、分断が起こり始めている」ということだ。原発、放射線の危険そのものも問題だが、住民間の対立や分断、孤立が生じていることで、復興がより難しくなっているという。「復興どころか、今は辛い状態のまま、それが変わらずに続いている。そして報道がどんどん少なくなっているから人の心から福島のことが消えていく」と懸念した。

 最後に登場したのは、避難所に掲示した壁新聞で一躍有名になった「石巻日日新聞」の武内宏之元報道部長。同紙はたった28人の職員で運営されている地方紙で、震災当時は輪転機が水没して紙面製作ができなくなったという。そのとき、「できることは何か?」と会議で議論する中、かつて戦時中に実践した「模造紙による新聞作り」を思い立ったという。3月12日から6日間にわたって、模造紙新聞を作り続けた。会場には実物も展示されていた。
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 日々、紙面を制作する中で、編集部員の中には葛藤があったという。「悲惨な内容をそのまま伝えつづけたら、読者の心が折れてしまうのでは?」と。そこで3日目から、希望を持てる内容を前面に押し出した紙面づくりに切り替えたという。「ボランティアが来た」や「支援物資が届いた」など。その点について武内さんは「厳しくても現実を伝えるのが新聞ではないかと何度も悩んだ」と振り返る。また、石巻の現状について、「1年が過ぎて、復興本番だとみんな言うけれど、あの日の話になると、みんな一瞬で記憶が戻ってしまう」という。「新しい町はどんどんできていくけれど、被災者の心はまだあの中から抜け出せないでいる。あの日、家をなくした人、大切な人を亡くした人がたくさんいる。1年3ヶ月でそれが癒えるかというと、あまりに短すぎる。復興というのは、被災した人にそれぞれ、そのときがきたら、復興なんだと思う。一律に復興と言うのは、あまりに安易で、地元の新聞社として使える言葉じゃない。それぞれの被災された方が、あの日の出来事を背負えるようになって、前を向けるようになったら、それが石巻にとっての復興のスタートになると思う」。自らも被災者で、ずっと地元に寄り添ってきた報道人の言葉だからこそ、とても説得力を感じた。

 三者とも、現地に住み込んでルポしたり、もともとその地に居住する人なので、視線がとても「現地の人に近い」と感じた。もちろん報道陣と被取材者の間には厳然たる一線があるのは間違いないけれど、それでも、こうやって「まず相手の立場に立つ」ことを徹底しているからこそ、被災した人たちに寄り添った言葉や映像を紡いでいけているように感じた。これは、東京から出張で2−3日やってきて、取材するだけの記者の取材とは本質的に違う。もちろんそういった報道を全否定するつもりはないけれど、これだけの被害を受けた被災者に配慮した報道をなすには、まずそこで暮らし、取材対象者に流れる時間や心情に思いをはせ、近い立場で寄り添い続けることが何より大事であると思った。それは自分がしばらく滞在した気仙沼大島でも思ったことだ。

 今回の講演では、誰もが「震災の風化」を懸念していたが、メディアの力こそが「風化」に抗う最大の武器だと思う。原発報道に関して、既存メディアは上杉隆氏率いる「自由報道協会」などから強く批判されているけれど、同じ東日本大震災でこういったいい仕事をしている報道記者も結構いる。放射能ネットワーク地図報道のNHKなどもそうだ。今後は、政府、東電の情報隠蔽に結果的に加担したという批判にきちんと向き合いつつ、現在進行形で続く被災地の問題について、既存メディアも真摯な取材を続けてほしいと思う。3者とも「これからも風化に抗って、被災地に向き合うことを続けたい」と口を揃えていたのが、少し心強かった。自分も形は違うが、長い目で付き合っていきたい。

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