最後の授業/ final seminar

「最後の授業」というタイトルで知人がブログを書いているのを読んで、おーなるほど
と思って、よく考えたら自分も今日が最後の授業だった!・・・しかも、それ、ついさっき終わった。

半年に及んだ、UEAの授業もついに終わってしまった。それで、涙涙の大団円・・・
となるかといえば、まあそんなことはまったくなくて、「あれ、もう終わったん?」というくらいの呆気なさ。
まあ、それも無理ない。今週は春学期12週目で、本来ならば「復習週間」で授業はないはずなのに、
なぜか調査法のクラスだけ、授業とセミナーがあり、その最後のセミナーがさっき(7日午後1時-3時)
あったというわけです。それに、これから5ヶ月以上かけて試験、論文に取り組むわけで、誰ともお別れする
わけではないので、感傷はヘソのゴマ程度です。授業がないのはちょっとさみしいけれど、実は来週も
5日間連続で、みっちり朝から晩まで人道支援に関するワークショップがあるので、まだ余裕ぶっこいている
場合でないというのもあります。

とはいえ
兎も角、終わりました。せっかくなんで最後のセミナー(レクチャーではなく参加型ワークショップのセミナー)がどんな内容だったか紹介します。

最後の授業は、「社会調査法のワークショップ」。泣く子も黙る(?)調査法のスペシャリスト(たぶん・・・)ローラ先生による、「質的調査における統計学の応用」なるテーマでした。簡単にいえば、「普段は、統計など定量的な調査手法を毛嫌いしているフィールドワーカーさんも、やっぱり統計的な調査手法を交えて、やっていった方が有益ですよ」という内容。さらに噛み砕いていえば、「質的調査でも数字のデータを活用しましょう!」というもの。
そりゃ、その方が良いよ、と考えるまでもなく、思います。 さて、で内容は


今日の事例は、
アフリカのある村で農家さんたちが、複数のバイオ燃料作物(ジャトロファやさとうきびなど)のうちから、どの
種類を導入するかを決める際に、どのような数値を使って、各種作物の比較優位を導き出すか、をグループワークで検討しました。簡単にいえば「どの作物がなぜ、一番良いのか」を村民の総意で決める際に、何を基準に優先順位を付けるかということです。 

はっきりいって、そう難しい話ではないです。日本語であれば、中学生でも分かりそうな数字の使い方しか必要ではありません。でも、今日のグループワークは、ある意味、非常に面白かった。それは、同じグループ内にマラウイアンの官僚である友人がいて、彼の意見と、他のヨーロッパ院生の意見が、正反対で、実に好対照だったから。ヨーロッパ院生(複数人)が、「こんなのはちょっと計算すれば、すぐに分かる。単純だし、一番評価の高い作物を選ぶ優先順位の付け方は難しくない」と、言うと、マラウイアンの友人は「現場にいってみれば、分かるけれど、こういった簡単にみえる計算も、現地の農民には非常に難しいんだ。そんなやり方じゃ、絶対に理解してもらえない」と強固に反対する。普段は温厚な友人なので、そこまで反発するのにはちょっと驚いたが、みなが「こんなの簡単だ」というのに、アフリカの事情を良く知る(そりゃ住人だから)彼にしてみたら、「机上の空論ばかりで、何も分かってない」という気持ちになったのかもしれない。多少は現地の状況を知る自分としても、「まあ確かに、現地の人に円グラフがどうだとか、統計手法がどうだとかいってもわかってもらうのは大変だろうな」とは思う。もう一人、同じグループにいたタンザニアの友人も「これは絶対に現地の人には無理だ」とマラウイの友人に同調する。ちなみに、グループ構成はヨーロッパ4、アフリカ2、そしてアジア1(自分)。

つまるところ、この半年間、いろいろな授業があったけれど、一番最後の授業で露呈したのは、開発学を多少学んだところで、簡単には乗り越えられない彼我の壁。そこで、またスタートの際に、自分が問いかけた疑問へ帰っていく。「本当の意味で、外部の人間に、異文化、異社会を理解することなどできるのだろうか?」。ここで開発学マスターをとった欧米先進国(日本も含めて)の学生たちは、自信満々にアフリカやアジアの現地へ向かうかもしれない。「俺は開発マスターなんだ(まあ、こんな露骨な馬鹿はいないと思いますが・・・)」「私は、開発のことを知ってるよ」。露骨にそう言わないとしても、内心では、「ちょっとは、知ってるんだぜ」と自負を持っているかもしれない。しかし、それこそがリスキーな落とし穴であるように、思えてならない。そう考えるようになった瞬間に、昔で言う「バカの壁」のようなものが現出して、正確な認識を妨げてしまうのではないか。持つべき正しい認識は「この多様で、いろんな可能性がありうる世界を、”正しく”理解するのは、結局のところ、非常に難しい」という、「無知の知」にも似た考え方ではないかと思う。マラウイで2年過ごして、帰国後多くの人に、「アフリカについてはたくさん知ってるんでしょ?現地の人の考え方とかも」といった類いのことを言われたけれど、自分の率直な気持ちは「2年過ごして、一番よくわかったのは、たった2年じゃ、大したことは理解できない」ということ。「マラウイについてよく知っている」なんてとてもじゃないけれどいえない。彼らとずっと一緒にすごしていても、彼らの目に移るものが何であるかは、正直理解できない。彼らの網膜に、野良犬が映っていたとして、「かわいい」と思うのか「怖い」と思うのか「汚ねえな」と思うのか、「病気もってそうだな」と思うのか、そんなことも分からない。もちろん、人類学や開発学を学ぶことで、多少は異文化にある人を理解するツールは入手できる。しかし、大事なのは、「それでもやっぱり、よく分からない」という限界を理解することじゃないかと、今自分は思っている。その距離を理解したうえで、何かをすることはできるし、それは結構有益だと思う。その距離を勘違いして、自分は何でも分かっている、つもりになって、「アフリカの人たちの気持ちを代弁して」みたいなのが、一番タチが悪いと思う。そういう人は往々にして、「誰かのために」何かをしているつもりで、実は「自分のために」何かをしているに、過ぎない気がする。


今日の最終セミナーでは、そういった大事なことを思い知らされた。調査法となんら関係ないのだけど、越えられない壁を強く感じたことで、今、自分がいる場所を再認識した。院でほんの半年ぽっち学んだだけで、何かが劇的に「分かる」なんてことはない。それは思い上がりだ。自分が持つべき現状認識は、この半年で、何かを得たとか、勘違いするのではなく、ここで得た、開発学や学問に臨む上で必要な姿勢や視点を、今後もずっと持ち続けて、どんな場所で生きるにしても、その場に、応じて、考え、学び続けていくことじゃないかと思う。だから、やっぱり、今はまだ感傷にひたったりするタイミングではないのだと思う。そもそも、来週提出のエッセイもあるし・・・・。まだまだこれからです。


とはいえ、とはいえ、まあそうはいっても「これが最後」と思えば、
なんとなく感傷的になるのが人間です。そして、そんな儚さに対する感覚が、自分は嫌いではない。
今週はいまいち、「締め」という感じはないのだけど、先週の農村政策の授業は、自分にとって必修科目だったこともあり、一番思い入れがあった。前の記事にも書いたけれど、プレゼン発表会の後、担任のトーマスがみんなにビールを振舞ってくれて、楽しく充実した時間を過ごすことができた。あれが自分の中での、春学期「終了!」という気がする。ここUEAで出会った、世界中からやってきた仲間達はほんとに、愉快で、温かくて、気が良くて、居心地がいい。終わったあとのことを考えると、ちょっとしんみりしてしまうけれど、それだって、よく考えたら、「終わり」というよりも、みんなが世界中それぞれの持ち場に帰って、地に足をつけて、何かを紡いでいく「始まり」に過ぎない。いつか、通り過ぎた足跡を、振り返ったとき、「いつのまにか、こんなに歩いたんだ」と思えるように、今はただ、一歩一歩を紡ぐのみ。

Anyway
これにて、春学期終了!


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農村政策の仲間たち(最終講義のあと)

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われらがコース担任のトーマス(左から2人目)と愉快な仲間達

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